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由 緒
御祭神
天兒屋根命(あめのこやねのみこと)
武甕槌尊(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
比壳大神(ひめ おおかみ)
創 祀
治暦4年(西暦1068年)
(写真提供 青柳佳邦氏)
縁 起
当社は治暦4年(1068年)の創建、帝都(平安京)東北鬼門鎮護のため御冷泉天皇により建立された社です。同年5月13日勧請、卜部兼忠を奉弊勅使として宣命の儀があり、以来御冷泉院の勅願所となりました。それにより社領三万有余石を寄せられ、国中第一の大社として毎年勅使の参向が行われました。
その後も当社の繁栄は続き、寛正元年(1460年) 阿波賀城戶口合戦により本社殿が焼失したものの、一乗谷初代城主朝倉孝景公に深く崇敬され、社殿を再建し数多の社領を寄進され、以後も朝倉氏代々に深く尊崇され戦勝祈願所とされるようになりました。 しかしながら朝倉氏五代当主義景の時、織田信長の侵攻により天正元年(1573年)8月朝倉氏は滅亡し、一乗谷治世103年の歴史が閉じられました。この時、一乗谷中大兵火となり当社も焼失、 神官吉田定澄も御神体を奉じて江戸に難を逃れたとのことです。
越前松平氏の時代になり七代藩主吉品公に深く崇敬され、元禄10年(1697年) 現社殿を再興し、同時に別宮瀧殿社を造営されました。 この事が中納言実種卿の耳に入り勅額を賜りました。以後、松平氏の崇敬は厚かったのですが、明治維新に社領廃止となり、明治8年(1875年)6月に県社に指定されたものの、古杉鬱蒼、建築古雅なる社も次第に衰えはじました。昭和3年2月、安波賀春日神社改修奉賛会を組織し、昭和9年(1934年)4月、遂に社殿及び境内参道等の大改修事業が完遂すると同時に、当社創立850年を執行しました。 昭和63年(1988)4月13日、本殿、拝殿、瀧殿社、及び杉木立が福井市文化財に指定されました。
境内神社 瀧殿社
瀧殿社は市道から210m高低差63m、本殿から120m高低差46mです。大地神社と稲荷神社を経由して獣害ネットをくぐり、ごく軽めの山登りを経てたどり着きます。
越前松平家七代藩主吉品(よしのり)公は、度量は大きいものの心迷うところが多く、一乗谷朝倉氏滅亡時に残したと伝える「以後越前の国主たる者には子々孫々に至るまで崇るべし」との怨み言がとても心がかりでした。実際に初代秀康、二代忠直、四代光通、六代綱昌と不運不幸が重なっていましたので、朝倉氏の怨霊除去、松平家繁栄のため、第一に着手したのが安波賀春日神社の再興(1697年)でした。 また、同時に造営した瀧殿社には、朝倉氏を祭り御神体として義景常用の馬具の一部を社地中深く埋蔵したと伝えられています。
他に境内社として、大国主神(おおくにぬしのかみ)を祭る大地神社、宇迦魂神(うかのみたまのかみ)を祭る稲荷神社の二社が鎮座します。
年間行事
元日 歳旦祭
2月3日 節分祭
3月 春季例大祭
10月 秋季例大祭
11月 新嘗祭
12月31日 大祓式
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日供祭
福井市文化財指定、平安時代に鎮座し、
戦国大名朝倉氏の戦勝祈願所でもあった
由緒ある安波賀春日神社で、杉木立に囲まれ、
1組限定の朝御饌祭で神饌をお運びし、
誰かのためにお祈りしませんか。